大判例

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名古屋地方裁判所 昭和49年(ヨ)569号 決定

申請人

南和弘

右代理人

恒川雅光

外三名

被申請人

学校法人 愛知学院

右代表者

竹田鉄仙

右代理人

佐治良三

外三名

主文

本件申請をいずれも却下する。

申請費用は申請人の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判〈省略〉

第二  当事者の主張

一、申請の理由〈省略〉

二、申請の理由に対する答弁および処分事由の主張

(答弁)〈省略〉

(処分理由の主張)

1 無期停学(登校禁止)処分について

(一) 被申請人の大学には親睦を目的とし全学生をもつて構成される学友会があり、申請人は、昭和四七年度はその事務局長を、同四八年度はその副委員長をしていたものである。

(二) 本件処分の基礎となつた事実は昭和四八年一〇月二五日の不法集会であるが、その具体的態様は次のとおりである。

(1) 学友会執行委員会(委員長辻弘二)は、同日正午から一二時四〇分までの約束で、グランドを使用して学生集会を開催していたが、右刻限を過ぎても解散しなかつた。申請外山田教養部長が一二時五〇分ころ図書館二階第五教室へ授業のため赴こうとしたところ、申請人は一〇数名の学生とともに山田教養部長を取り囲み、学生集会へ出席するよう求めた。同人がこれを拒否して前記教室へ入ると、申請人らは教室へ乱入し、退去の要求を無視し、申請人において教壇を占拠して更に集会への出席を強要し、罵声を浴びせ、授業の開始を不可能にした。そのうち、学生の中から「授業をクラス討議に切り替えるか否かの賛否を問え」との声が出て、採決した結果、授業を受けたいとする者が多数だつたため、申請人らはやむなく教室から退出し、山田教養部長は授業を始めたが、僅か一〇分しかできなかつた。

(2) 一方、グランドでは集会が続行されていたので、申請外丹羽学生課長は、授業時間に食い込む集会は違法であるから直ちに解散するよう、申請外太田課員を通じ、辻委員長ら集会責任者に伝えた。太田課員が右伝達を終えて帰ろうとしたところ、多数の学生がこれを追いかけ、五号館前で捕えようとしたので、申請外加藤学生係長がこれを阻止するために出向いて学生に応対したので騒然たる状況となつた。これを聞き知つた丹羽学生課長が五号館玄関前に姿をみせたところ、三〇数名の学生が「課長を引きずり出せ」と叫んで同人を無理矢理に引きずり出そうとした。これを見た学生課員が丹羽課長を救出しようとして激しいもみ合いとなり、課長らは衣服を破られ、地上に転倒した。ようやく、丹羽課長が自席に戻つたところ、申請人は丹羽課長にマイクをつきつけ、午後一時五〇分ころから午後二時三〇分ころまで大声で同人を誹謗した。

(3) 山田教養部長が、午後二時三〇分ころ、教室を退出しようとすると、これを待ち構えていた学生が同部長を取囲み、同人を無理矢理集会場へ連行した。

(4) 申請人は、再び集会場へ戻り、マイクを持つて、日進移転問題についての全学説明会に学長、理事、学部長が出席するよう確約せよと山田教養部長に迫り、同部長がこれを拒否すると、「私は学長や各学部長、理事が学生の前に出て来て全学友の意見や、要求を聞く必要があると思う。そこで、私は移転説明会を開くよう教養部長の責任において強く働きかけることを確約する。愛知学院大学教養部長山田和麻呂昭和四八年一〇月二五日」と書かれた文書を取出し、疲労困ぱいの極に達し意識もうろうとしている山田教養部長の手をとり、スタンプインクをつけて、拇印を押させた。その時刻は午後四時四〇分ころであつた。

その間、丹羽学生課長は、数度にわたり解散を命じたが、申請人らは、確約をとるまで続行するといつて山田教養部長を責め続け、午後四時四五分同人の健康状態に不安を感じた丹羽学生課長が医師の診断を要請したのに対しても、申請人らはこれを拒否し、被申請人大学から要請されてかけつけた申請外仁木医師は学生に阻まれて山田教養部長に近づくことができなかつた。

山田教養部長は拇印を押させられたあと、ようやく申請人らから解放されたが、顔面は蒼白で自力独行ができぬ状態であつた。

(5) 申請人らは、山田教養部長を解放後、申請外橋本繁学友会代議員会議長を捕えて集会場の壇上に引き上げ、午後七時すぎまで吊し上げて自己批判を迫り、丹羽学生課長の数次にわたる解散命令にも服さず集会を続け、最後に学内デモを行つて午後七時二三分ようやく解散した。

(三) 本件処分の手続とその違法性〈省略〉

理由

一本件各懲戒処分の存在

被申請人が私立学校法に基づき設立された学校法人であり、被申請人大学等を設置するものであること、申請人が被申請人大学の学生として昭和四八年一〇月当時、被申請人大学商学部経営学科第二学年に在藉していたことおよび被申請人大学学長が申請人に対し、学則第三三条第四号「学校の秩序を乱し、その他本学学生としての本分に反した者」に該当するとして、昭和四八年一〇月二九日付通知をもつて無期停学(登学禁止)処分に、次いで同年一二月一八日付通知をもつて退学処分にそれぞれ付したことは当事者間に争いがない。

二懲戒処分の適否判定の基準

大学の学生に対する懲戒処分は、教育及び研究の施設としての大学の内部規律を維持し、教育目的を達するために認められる自律作用であり、この場合において、懲戒処分に付するかどうか、また懲戒処分のうちいずれの処分を選ぶかを決定することは、その決定が全く事実上の根拠に基づかないと認められる場合であるか、もしくは社会観念上妥当を欠き、懲戒権者に任された裁量権の範囲を超えるものと認められる場合を除き、懲戒権者の裁量に任されているものと解するのが相当である。もつとも、退学処分については、他の懲戒処分と異なり、学生の身分を剥奪する重大な措置であるから、当該学生に教育的改善の見込みがなく、学内の教育環境を維持するためには同人を学外追放するもやむを得ないと認められる場合に限定される終局的処分でなければならず、他の処分の選択に比して特に慎重な配慮が必要とされることもちろんである。

又、いわゆる大学紛争の過程において行なわれた行為が処分事由とされているときは、その審査にあたり、当該行為の動機目的を考慮するのは勿論、紛争の一方の当事者たる大学当局自身の判断によつて懲戒処分が行なわれることに鑑み、処分事由とされた行為の法的評価も、静的、絶対的に行なうことなく、紛争の一方の当事者たる大学側の態度、事情と合わせて流動的かつ相対的になされるべきこと又多言を要しないところである。

そこで、以下本件各処分の理由となつた事実の存否およびその処分の適否について判断することとする。

三無期停学(登校禁止)処分について

(一)  本件疎明によれば、被申請人大学には全学生をもつて構成される学友会があり、申請人は、昭和四七年度はその事務局長を、同四八年度はその副委員長をしていたこと、同四八年一〇月二五日、被申請人主張のとおり学友会主催の学生集会が開催されたこと、その集会の経過および同集会における申請人の行動が、概ね、被申請人が本件処分事由として主張するとおりであつたことが認められる。

(二)  そこで、昭和四八年一〇月二五日の右集会が開かれるにいたつた動機とその目的についてみるに、申請人は、直接的な目的としては、いわゆる日進移転問題につき重大な利害関係を有する学生に対して被申請人大学当局は何ら具体的な説明をせず、学友会を通じた説明要求にも一方的に拒否の態度をとるのみであつたため、真剣に学校側の説明を求める場として学友会主催の下に本件学内集会が開催された旨主張する。

本件疎明によれば、被申請人大学は、名古屋市千種区楠元町にあつたが、学生数の増加と教育施設の拡充のため次第に狭あいとなり、愛知郡日進町大字岩崎字阿良池に大学を移転することとし、昭和四四年二月から工事に着工したこと、そして同四八年三月までには、大部分が完成し、昭和四九年度からは第一年次生と第二年次生(教養課程)が移転し、同五〇年度からは第三年次生と第四年次生(専門課程)が移転することになつていたけれども同四八年一〇月ごろまでは通学の方法、下宿、学生宿舎その他の厚生施設等学生の具体的な勉学、生活条件について全学生に対し充分な説明はなされなかつたため、学生の間にそれらの点につき不安を感じるものがいたであろうことは容易に推測できるものである。

しかしながら、他方において、被申請人大学は、同四四年四月教学部に広報課を設置し、「愛知学院大学広報」を毎月一回発行して、教職員・学生・父兄に建学の精神、学内の現状、内外の諸問題につき情報提供を行なつてきたが、その「広報」の第三号(同四四年九月三〇日)、第五号(同年一一月二九日)、第八号(同四五年二月一日)、第二二号(同四六年七月二日)、第二三号(同年九月七日)、第二四号(同年一〇月二七日)、第二九号(同四七年七月一日)、第三二号(同年一二月八日)、第三六号(同四八年一一月一日)において、日進学舎移転問題につき掲載しており、同四八年四月八日には、「日進学舎特集グラフ」を発行し工事計画、工事の進渉状況の説明をなしたことが一応認められる。

そして被申請人大学は、学友会執行委員会と接触する機会を設けており、昭和四七年には右会合を五回行なつて、説明していたが、同四八年には学生の方から拒否されて開けなくなつたことも認められ、右のような勉学、生活条件についての学生の不安を解消する方法が全く閉ざされていたとはいえないものである。

(三)  以上の諸事情を総合勘案すると、本件学内集会を開催するに至つた動機としては、学生間に存した種々の疑問、不安をとりまとめて、大学当局に対してその回答を求めるということは、それ自体としては、特に非難さるべきものではないけれども、学内集会が許可条件に著しく反して長時間にわたり行なわれたこと、又、その間に当時満七一才の山田和麻呂教授を午後二時三〇分ころから午後四時四〇分ころまで拘束し、同教授の手をとつて拇印を押させる(疎乙第六号証の栂印の位置からして同教授が任意に押したものとは認め難い。)という行動に出たこと等、その動機・目的によつても正当化され得ない違法な方法で行なわれたものといわざるを得ず、右学内集会を計画、指導し、また、自らもその実行の中心的役割を果した申請人は、規律違反の責任を免かれないものというべきである。

(四)  されば、前叙のごとき事実関係のもとで、被申請人大学学長が申請人を学則第三三条四号にいう「学校の秩序を乱し、その他学生としての本文に反した者」と認定し、懲戒処分のうち無期停学を選定して行なつた本件処分は被申請人大学学長に与えられた裁里権の範囲を逸脱し又はこれを濫用した当然無効のものとは、到底認め難い。

(五) 又、申請人は無期停学(登学禁止)処分が規程上の根拠を欠くものである旨主張する。

学則第三三条には「停学」とのみ定められていることは申請人主張のとおりであるが、懲戒処分として退学も認められていること、事の性質上有期停学はある程度の期間をこえることは相当ではなく、長期にわたらざるを得ないような場合にはむしろ不定期の処分をし、事情に応じてその解除をはかるのが相当な場合もあり、現に被申請人大学においてもそういう取扱い例もあつたことに鑑みると、右学則が無期停学という処分を禁じていると解すべきものではない。又、登学禁止についても、そもそも停学処分は、学生の地位を停止する懲戒処分であるから、これにより被処分者は、授業を受け得ないのはもとより、当然には学内に立入る権利をも有しないものと解すべきであり、登学禁止処分を解除するかどうかを教育的配慮に委ねるとすることも十分合理性を認められる。従つて、登学禁止処分は停学処分の一内容をなすものであつて、停学処分と別個の処分ではないと解すべきである。

四退学処分について

(一)  本件疎明によれば、前項の如く、申請人は無期停学(登学禁止)処分を受けたにもかかわらず、申請人は、被申請人主張のとおり、無期停学(登学禁止)処分の告知後の昭和四八年一〇月三〇日以降同年一二月一三日までの間にしばしば登校し、アジ演説をしたり、授業の行われる教室へ立入り授業に支障を生じさせたこと、その間、一一月七日に、丹羽学生課長から文書による忠告を受け、更に同月二〇日に、同月一六日開かれた教授会の議に基づく同月一九日付教学部長佐藤匡玄名の警告書を手交されて加藤学生係長から注意をそれぞれ受けたにもかかわらず申請人はそれらを無視して引続き登校してアジ演説を行つていたこと、こうした事情のもとに、同年一二月一一日の学生委員会において、申請人の処分後の言動は改悛の見込が全くなく、学内の秩序を乱すばかりであるから退学処分に付すべきだという意見が多数を占めたこと、そして同月一四日に開催された教授会において全員一致で退学処分に付することに決定したことが一応認められる。

(二)  以上の認定よりすれば、本件退学処分が被申請人大学学長に与えられた裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用した違法のものであるとは、到底認めることができない。

五よつて申請人の本件申請はいずれも理由がないことに帰するのでこれを却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり決定する。

(黒木美朝 長嶺信栄 雨宮則夫)

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